後悔するほど、よい

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先日のおゆうぎ会には多くのご来場をいただき、ありがとうございました。
その後多数の園児がインフルエンザA型に罹患され、お休みになられました。直前まで感染が広がらないようご協力いただき、園内でも通常より対策を手厚くしておりましたが、防ぐことができませんでした。大きな反省点として、再び繰り返すことが無いよう検討してまいります。

早いもので今年度ももう終わろうとしています。
3月にはゆり組園児の卒園という大きなが区切りがあり、新しい年度を迎える準備が進んでいきます。
毎年この時期、今年度は「良い一年」と言えるのか、と振り返りますが、必ず「これで良かったのか?」と後悔することがあります。

後になって、なぜあの時あの選択をしたのか? と、うまくいくはずだと考えていた自分の浅はかさと至らなさ、その事によって周囲にかけた迷惑の影響などを振り返るほど、悔やむ思いにさいなまされます。想いを強くもった決断であればあるほど、後悔の念は大きくなります。

後悔することには必ず、その時に取った決断とは別の選択肢があります。
実際に選んだ道とそれ以外の道を比較し、思いつく限りのあらゆることを想定して、より良い選択をしたはずなのですが、必ずその通りの結果になるわけではありません。運任せにする訳ではなくても、最後は時の運、成功と失敗が背中合わせであると痛感します。
選択が多ければ多いほど失敗が多くなり、「後悔」がつきまとうことになります。

では後悔すること、失敗することは悪いことなのでしょうか。
先だって、米倉誠一郎先生(一橋大学イノベーション研究センター教授)から「10人いて自分以外の9人が反対するアイディアでなければ価値を生み出せない」との言葉をいただきました。
全員が賛同するアイディアであれば必ず成功するのか? といえば、そうでもありません。ただ「皆が良いというのだから良いのだろう」という説得力があります。失敗したときには「皆が良いと考えていたのだから仕方ない」と言うこともできます。ただこれには決定的な問題点があって「10人が全員思いつくようなアイディアは他所でも思いつく」ものであるため、「うまくいって当たり前、失敗したら時間と資源の無駄」となってしまいます。
つまり他に誰も挑戦していないことに挑戦し成功することを目指さなければ、最初からマイナスしかない選択を行なっていることになります。

子供の育ちを観察する時、失敗を多く受け入れられるタイミングで大きな成長が見られます。一つひとつの失敗に立ち止まらずに次々と色々試すことができる時間があってこそ達成できることがあります。
これは個人差というよりもタイミングの違いのようであり、誰にでも失敗をしても気にしない時もあれば、そうでないときもあるようです。おそらく「失敗を気にしない」というよりも「やり遂げたい気持ちが失敗を意識させない」時なのでしょう。

後から振り返れば、あっちの道のほうが良かった、という事実は簡単に見つけられます。俗に「神の視点」というもので、歴史を振り返る際にはよいのですが、実際に進む道を選ぶ時にはそのようにはいきません。
ポジティブに考えれば「後悔」はチャレンジした証(あかし)、とも言えます。

「これで良かったのか? と後悔するほど、よい」と言えそうです。